旧海軍佐世保無線電信所(針尾送信所)・
長崎教会群及び軍艦島の研修
2016(平成28)年8月27日~28日
○長崎研修の概要を記す。 養父 信義
○長崎研修 副題 石積み 本伝会 養父 信義(Y.O設計)
○平成28 年 長崎研修に参加して 本伝会会員 みつまつ塗装 三松健次
○長崎の教会群・石炭遺産研修 日田左官組合 河津 富生
○矢永良雄
○平成28 年度長崎研修 本伝会 松岡 亜紀
平成28年 本伝会長崎研修報告書(PDF 3.8MB)新しいページで開きます
長崎研修の概要を記す。 養父 信義
前年に続き、真夏の暑い最中の研修である。参加人員9 名で計画されたが、1 名がヤンゴトナキ事情で欠席となり、8 名で行われた。
費用は、総額(交通、宿泊、入場料、食事費含む)約20 万円であった。
研修先は以下の通り。
- 旧佐世保電信所。旧日本海軍が1918(大正7)年から1922 年間で建て
た。総工費155万円(現在の金額で250億円) - 長崎教会群・・大野教会堂。出津教会堂。黒崎教会堂。大浦天主堂。
- 採炭関連施設・・軍艦島。髙島。
参加者名
梶原(勝)。河津(富)。林(秀)。日高(淳)。松岡(亜)。
三松(健)。矢永(良)。養父(信)。以上8名。
締めくくり感想
定員10人乗りワゴン車で、日田を8:00に出発。大分道⇒長崎道⇒西九州道を走る。運転は今回も林君。(ご苦労さん・・但し部屋はシングル。他はツインであり、時期が良くなくシングルが取れなかった)
まず旧佐世保電信所(写真A)。ゆっくり1時間研修(女性のガイドさんの説明付)。昼食(一魚一会)後、大野教会堂へ、国道202号から山の中腹へ、ワゴン車いっぱいいっぱいの道幅、つづら折りの道を終いにはバックで登る。次の出津教会堂へは山中山道を進行。偶然太平作業所跡の遺跡を発見。石壁の要領が良く解る。30分後に出津教会堂につく。事前に見学申し込みをしていたので、大野・出津共説明者の方が待機されていた。予想してなく有難いことである。出津地区の他の施設を見学し、黒崎教会堂に向う。此処はレンガ造でリブ・ヴォールト天井の教会らしい教会(写真B・C)の印象である。しかし、当日案内して頂いた信徒の方が非常に心配されていたのが、地震時のレンガ造建物はどうなるのか?・・(日本でのレンガ造は明治以降に随分建設されてきたが、関東大震災以降影をひそめた。地震時は建物内からすぐ避難すること。そして
地震が来ないことを祈るのみですね。と告げる)202号線に戻り、女神大橋を渡り長崎市内に入り、ホテルに着く。夕食の登利亭へは、電車で行く。亭の2階の部屋へは建築基準法違反であろう60cm の中廊下を通り入り、歓談を深めた。今回はどうした訳か日高氏が2次会でカラオケをたっての所望でどうしても行く。仕方なく6人で行く。思案橋までタクシーを走らせる途中、運転手
さんが今日は思案橋は、やめたが良いとのアドバイス・・“ぼられ”ますよとの事。長崎の方は皆親切ですね。
日高氏は何の心境の変化が有ったのでしょうか?6曲ほど熱唱する。明日にならずホテルにかえる。
翌日は、朝から雨(前川清を歌ったせいかしら)、軍艦島に出航。途中「高島」に立ち寄る。立ち寄るコースは初めてである。海が少しづつ荒れてきた。軍艦島の前に「中の島」(写真D)が有る、頂上に公園がある由、(亀山公園=亀が居るらしい=これはジョーク。軍艦島の火葬場とお骨の一時保管場所にした島とのこと)
雨は降る。風もある。波は高い。波を突き切るクルーズ船は真下で「ボキッ」と何回も悲鳴を上げる。島を周回し港に引き上げる。(林君は昨夜の酔いの続きを満喫)昼食の京華園に行く。予約してあり、何処に行こうかと迷うこともない。此処でピータンを別注する。駐車場で長崎ナンバーの車が他車に当て逃げする。ナンバーを書いてフロントガラスに張って来た。この後大浦天主堂に行
く。それぞれに研修し何か得るものが有ったと思っている
一路高速道を走らせ日田に6時ごろ帰着した。
尚、この長崎研修に先立ち、熊本地震の「文化財ドクター派遣調査事業」の建築士会九州ブロック会の長崎代表として、熊本での会議で鉄川進氏と同席し、各県受持区調査を終え9 月11 日から大分県の調査に移った。奇しくも日田市東部の調査に長崎より鉄川氏と石山氏の2 名が来られた。ところが鉄川氏の祖父与助氏はド・ロ神父との交流は密で、教会建築の代表格の技術者であった。ド・ロ神父の若き頃の写真も持っている由。私達の長崎教会の研修と合わせ、鉄川
氏と面識が持てた事も、縁は異なもの味なものと感じた。
長崎研修 副題 石積み 本伝会 養父 信義(Y.O設計)
石積みの種別は「石垣」「石築地」「石塀」や「石壁」。技法として、乱積み・布積み・落し積み・野面積み・亀甲積み・切石積みなどに分類できる。江戸期以前から我が国においての伝統技術として発達して来ている。しかし、年代は下がり、人力による仕事から順次機械化が進み伝統技法は衰退して来た。どの職種の分野においても、技術を受け継ぎ次代へ継承する技術者が不足、いや、居なくなった。・・・・・大変なことである。
今回8 月27 日・28 日と一泊二日で、本伝会の見学研修をおこなった。旧佐世保無線電信所と軍艦島に長崎市内の教会群を視察研修した。キリシタン迫害解除後の西彼杵半島地区の暮らし向きや生活様式、歴史の推移などは、この地方の石積み文化に感じ取ることができた思いである。
突然話は変わりますが、
先の熊本・大分地震で被災されました皆様方へ、心よりお見舞い申し上げます。
「文化財ドクター派遣調査」事業の熊本県第一次調査を終え、これから大分県の第一次調査に取り掛かる準備をしている8 月末から9 月初旬です。熊本の被害は、新聞・TV等でご存知の通り大変な被害です。大分県の被害も耳に入ってきますが、これからの調査で歴然となると思います。熊本城、阿蘇神社などは言葉を失ってしまいます。これ以外の県市町村レベルの地方文化財やこれに準ずる未指定物件にも完全倒壊(写真1)など目を覆う物件が多数あります。
これらの修復には、数多くの人手や資金が必要となりましょう。地盤が強固でなければ、建物がいくら良くても存在の難しい事は、今回の地震で解りました。しかし、熊本城の隅石だけで持ちこたえた飯田丸五階櫓(写真2)、出隅工法の算木積みには感心するばかりです、正に孤軍奮闘の体である。
話を戻しますが、その前にこの西彼杵半島の大野地区の人々は、平戸領主松浦氏の重臣籠手田一族でキリシタン弾圧を避け逃亡してきた人たちが移り住んだ地でもある。慶長6 年(1599)の事である。つまり隠れキリシタンの地でもあり、国道202号線が開通する前は、山間地で隠れ住むには良かったのかも。
この地区の石垣、石塀、石壁などの構造物は、すべて同じ手法で築かれていた。石積みに使用されている石は、この地方の地質である結晶片岩(剥離性に富む変成岩)であり、扁平に加工がしやすく、厚みも持ち運びや積み重ね作業の容易な8~10 センチメートル。長さも20~30 センチメートル程度である。これ等の石を大小取り揃えて順次重ね積みする。(仕事の程度の良い石積みは厚さなどが揃っていて見栄えがする。急ぎ働きの仕事はゴロタ石などが交じっているのもある)何時のころから施工されていたかと言うと、文献では宝暦や文久(1760.1860)頃の絵図に描かれている由(私見=籠手田一族が移り住んだ1600年ごろからとも考えられる)。江戸期の技法は、赤土に切り藁を混入した練り積みである。明治に入り、キリシタン迫害解除に伴い長崎各地に教会が建てられ、宣教師が赴任して来る。この地にやって来たのがフランス人のマルコ・マリー・
ド・ロ神父である。ド・ロ神父は博学であり、建築学、農学、経済学などに秀でていたようで、宗教だけでなく生活支援まで指導していた。神父は出津教会(1882 年)を建て、次年に出津救助院など建築。1893 年下大野町26戸の信徒は、出津の教会までは距離が有り、大野教会堂(写真3)をド・ロ神父の設計の元、自分たちで建築した。地元に伝わる伝統技術の石壁とド・ロ神父のも
たらした水に溶かした赤土と砂と石灰を混ぜ、石を積み上げる(地元でド・ロ壁と呼ばれる)西洋技術と融合した民家風の教会堂である。これらの作品が、大野教会堂・大平作業場跡の遺構(写真4)や出津救助院のド・ロ塀などにも数多く残る。また、大平作業所跡から出津教会堂への道すがらの周囲に人家はなく一戸だけ残る平屋建ての民家(写真5)も外壁は石壁で、屋根は木骨組竹
野地下べた土置き桟瓦葺きである。おそらく明治当初頃の建物と思うが、個々の住まいにも取り入れられた工法であり、この地の里人には当たり前のことであり、当然の如く自分達で加工し、作業し、建築したものであろう。また、江戸期の建物の屋根は草葺き(藁・茅)であり、石壁の上に桁を敷き、梁を渡して叉首を組み屋根を葺く。石壁と合わせてこの様な工法であれば専門職(大工・
石工)は必要なく自分達だけで住まいが完成する。私達の地域の石積みなどは、割石も大きく専門職でないと施工は難しい、しかし、この地の石は単体の大きさが小さく、重量も軽くて積み上げやすく、自分達だけで施工できた。こうして長年培ってきた石積み(写真6)の技法は、里人に代々受継がれてきたわけである。(某大学の文化財関係者が見学に来て・・この近辺には素晴らしい石工さんが居ましたか?との問いが有ったとか・・それだけ見事な石壁。)
ド・ロ神父の赴任により、里人たちを裕福にしようとさまざまな産業を興す。
お茶・製粉工場・マカロニの製造・カンコロ芋粉(写真7)の製造(昭和の終戦直後には輪切りにしたカンコロ芋を供出していたのが、左から右に走る。)などの事業を手掛けて、信徒の発展に努めている。
大野教区で26戸あった信徒は、現在8戸となった。出津教会も1000人超の信徒が、660名になった。黒崎教会でも約800 名の信徒になったとの事。
年々減少の傾向にあるとの事。では、その信徒たちは何処に行ったのでしょうか。浄土真宗に鞍替えしたのでしょうか?それとも、子供たちが都会に出て行き人口減少によるものでしょうか。はたまた、無宗教層になったのでしょうか。それとも、個々が裕福になり、心のよりどころを求めなくても良くなったのでしょうか?・・・・。(写真8) 仏教徒も同様の傾向にある由であるが。
平成28 年 長崎研修に参加して 本伝会会員 みつまつ塗装 三松健次
本伝会の平成28 年の研修は長崎方面であった。研修のポイントは針尾送信所施設・長崎教会群・軍艦島周遊であった。
1)旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設
国指定重要文化財
本施設は、旧日本海軍が1819 年(大正7)から1922 年(大正11)にかけて建てた送信施設である。敷地内にある3 基の無線塔は鉄筋コンクリート製で、高さ136m、基底部の直径は約12m の煙突のような構造となっている。一辺300m の正三角形に配置された無線塔の中心には、電信室と呼ばれる鉄筋コンクリート造の通信施設も建設される。その他施設内外には、油庫・貯水槽・事務所・兵舎・港湾施設など、当時の建物が残されている。
近年の調査により、本施設が建設された歴史的背景と共に、土木技術や無線技術の面からも高く評価され、日本の技術発展を象徴する近代化遺産として、重要文化財に指定される。
太平洋戦争の開戦を告げた「ニイタカヤマノボレ1208」を送信したとして有名な施設であるが、この事に関する資料は無く、送信したかどうかは不明である。
保存会のガイドさんの説明を聞きながら施設を見学していくにつれ、当時の土木技術の水準の高さには目を見張るものが多い。先ず高さ136m もの鉄筋コンクリートにひび割れが無い事。経年疲労や地震などを考慮してもよくぞ無傷で今に至っているその技術のすごさ。更に下と上との打設痕の美しさと不陸の少なさ。外足場なしでの型枠作り。砂の塩分を抜くことへのこだわり。鉄の前処理に重きを置き、サビを発生させない為の工夫など、先人の知恵が垣間見えた。しかし施設のある所では、コンクリートが剥がれ落ち、鉄筋がむき出しになっている所もあった。
この針尾無線塔から「ニイタカヤマノボレ1208」が送信されたかは定かではないが、あまりにも有名であり、戦争の口火となった電信文なので、施設見学を機会に激動の数日間を顧みる事とした。
1941 年(昭和16)11 月26 日
連合艦隊機動部隊と名付けられ、南雲忠一中将に率いられる艦隊は、秘かに太平洋に向け出発した。ハワイオアフ島真珠湾の米軍基地を奇襲する為である。これより前の11 月20 日には潜水艦が出発している。
12 月1 日 御前会議に於いて、対米・英開戦を決める。機動部隊が出発した時点では、ハル・ノートはまだ手交されていなかった。にもかかわらず出発を急いだのは、開戦と同時に敵の主力を攻撃し優位につくのと同時に、米軍の士気を失わせるという作戦であった。この奇襲戦法を計画し実行に移したのは、連合艦隊総司令長官、山本五十六海軍大将である。
12 月2 日 山本から「ニイタカヤマノボレ1208」(12 月8 日攻撃せよ)の暗号電文を受けた機動部隊は、北緯46 度以北の太平洋を東へと進んだ。
12 月8 日 午前1 時半(現地時間7 日早朝)、空母を飛び立った攻撃隊が真珠湾の米艦隊を攻撃、雷撃隊も魚雷を艦船に浴びせた。
午前3 時22 分、早くも攻撃隊を指揮する淵田美津雄中佐から「トラ・トラ・トラ」(我 奇襲に成功セリ)との暗号電文が打たれた。
この作戦の成功で山本は、国民の熱狂的な支持を受け、日本海海戦の東郷平八郎と並ぶ「名将」となった。
※一口メモ
海軍攻撃中止電文案 「ツクバヤマハレ」
陸軍攻撃電文 「ヒノデハヤマガタ」
海軍飛行隊攻撃電文 「ト・ト・ト・ト・ト・ト・ト・」
2)長崎の教会群とキリスト関連遺産
(後略)
長崎の教会群・石炭遺産研修 日田左官組合 河津 富生
まえがき
本年度の研修として、世界遺産への登録の可能性が高い長崎の教会群とその周辺及び端島(通称軍艦島)への視察研修を行った。8 月27 日~28 日だった。
〈針尾の無線塔とその施設〉
8 月27 日(土)
研修の一日目は、太平洋戦争で有名な(実際は不明)針尾の無線塔である。本施設は、旧日本海軍が大正7 年~11 年にかけて建てた送信施設です。日露戦争を契機として無線連絡体制の強化が必要となり、総工費約250 億円、無線塔1 基あたり50 億円を費やし建設されました。敷地内にある3 基の無線塔は、いずれも鉄筋コンクリート製で高さ136m、基底部の直径は約12mの煙突のような構造となっています。太平洋戦争の開戦を告げた「ニイタカヤマノボレ1208」を送信した施設として有名ですが、なお、作戦が中止の場合は海軍が、「ツクバヤマハレ」陸軍は、天気は「ヤマガタ」、天気はそのことに関する資料はなく、送信したかどうかは不明です。
大正7 年にしてはコンクリートがよく詰まっていて当時の打設技術は素晴らしい!
〈海外の教会群〉
8 月27 日(土)
佐世保を後にし、長崎半島を反時計回りに大野教会堂を目指す。国道202 号線を東シナ海を見ながら進む。海の風景や潮の香りがとても心地よい。
国道から左折し山を登っていくと途中にパーキングがあるが、無理を承知で登っていく。
荒山にへばりつくように大野教会がある。
ひと通り外見を見回り、その後管理をされている方より教会についての説明を受けた。
長崎のキリシタンは宣教・迫害・潜伏・復活の長い歴史がある。明治になり信仰が表明できるようになり、それぞれの信仰を守ってきた地に教会群が建てられた。人々の生活を支えてきたフランス人宣教師マルコ・マリー・ド・ㇿ神父が中心となりキリスト教教会が建てられた。
〈大野教会の特徴〉
ド・ㇿ神父が1893 年、26 戸の信仰世帯のために建設する。
地元の玄武岩を用いた『ド・ㇿ壁』は伝統的な民家建築を基本としつつも西洋技術を取り込んだ素朴な教会となっている。しかし、地元の信仰にたいする情熱があふれる建物である。
急峻な段上の石積の上に平地を作り、その上に伝統的な木造建築があるが、『ド・ㇿ壁』により、激しい、海からの潮風や風雨を防いでいる。2008 年に国の重要文化財に指定された。
木造平屋建て、瓦ぶき、軒桁持ち出し梁組キングポスト木造小屋組 外壁:ド・ㇿ壁石積
※ド・ㇿ 地産の玄武岩をしっくいモルタルに積んでいく。
1、北側正面には窓がなく、側面風除室を通って室内にいる珍しい形式となっている。(ネリベイ建物)
2、室内:列柱のない一室構成で、天井(竿緑)、床張(板)は後補のものとみられる。
3、通り抜けの前廊部と、開口部のない北側壁
4、窓上部半円をアーチ状のレンガ造とする。
昔は・・28 世帯だった。
今は・・8 世帯
今後の維持、管理については門生徒の減少により非常に不安である。・・・とのこと
〈ド・ㇿ神父 太平作業所跡〉
大野教会より、山越えの道を進み下るとすぐに遺跡が見える。大平作業所跡だ。
一見、「ペルーにある有名なマチュピチュ遺跡」を思わせる。
ど・ㇿ神父が地域住民の生活向上のため、明治17~34 年(約17 年)かけて開墾事業に伴って建てられたものである。
構造 石積造 平戸建て
高さ 4m
壁 ド・ㇿ壁
屋根 瓦ぶきの屋根だったといわれている。
梁内 8.9m 桁行 9.5mの4 つの屋根を有する主家。桁内5.5m 桁2.9mの下屋
〈出津教会堂と旧出津救助院〉
急峻な山道を角力難へ向けて下ると急に視界が開け、海を背に出津教会堂が現れる。
先ほどの大野教会堂とは規模、造りもまったく違う建物である。中腹にある教会堂からは海の碧と外壁の漆喰壁の対比がまぶしい。
教会堂の表面には高くそびえる鐘燐が平屋切妻形式の屋根とのバランスのある強烈なアクセントとなっている。内部には外見とくらべて低い平天井であり、平凡である。
ド・ㇿ神父が1882 年に建設する。その翌年旧出津救助院を建設した。
この教会は屋根を低くしてあるが、これは海からの強風を意識したものといわれており、前述の内部天井高のことが理解できる。地方産出の材料が使われた地方色の強い建物である。
少し下ると、出津救護助院がある。この施設もよく保存されており、記念館・休憩場・展示場等に使われており、当時の地域住民の生活や暮らしがわかるようになっている。この施設は1883 年、女性の自立支援のために建て、織物・縫物・食品加工などを行った。神父がフランスから取り寄せたオルガンの音が当時をしのばせる。
黒崎教会堂
出津教会の視察を終え、途中道の駅にて休憩をとる。日中の暑さもありソフトクリームが最高においしい
国道を曲がりながら進むと入り江の奥に、高台中腹に黒崎教会が見えてきた。
1920 年に峻工された赤レンガの建物は長崎県では最後のレンガ造である。高さと壮厳さをそなえた教会らしい建物である。
天井はゴシック様式のリブ・ウォㇽト天井→
ステンドグラスの窓から神秘さを際立たせている。
所在地 長崎県長崎市黒崎26
建物 レンガ造平屋建て 532 ㎡
竣工 1920 年
施工者 川原 忠義
軍艦島
8 月28 日(日)
本日は、風雨となり、軍艦島へは大丈夫だろうか?と思った。とにかく長崎漁港へと向かった。そして予定通りに出港した。女神大橋をくぐると外海となり次第に波が荒くなってきた。
軍艦島は無人島となり、約45 年経過しており、今後の保存が期待されている。
まとめ
針尾の無線塔での研修では、大正時代の技術にしてはとても素晴らしかった。
また、大野教会は、漆喰石積みの建物だった。漆喰の強さを改めて感じた。
教会群などの建築物をまじかで見れて、非常に勉強になりました。
矢永 良雄
針尾無線基地
土木技術高さに驚かされた(現在の施工法の違いが?)。
無線塔はコンクリートのクラックが見られない。型枠には杉板が使用されており、型枠の膨らみが見られない。使用セメントに使用する材料はどのような骨材の使用か、どこから運ばれたのか、
鉄筋及び鋼材は何処で作られ、どのように運ばれて来たのか。
鉄筋は縦筋の接続工法は又コンクリートの呼び強度等は打設方法どのような工法で施工されたのかなあ。
材料の品質管理が厳格であったと推測できる。
無線塔1基あたり作業人員、工数は、内部外部の仮設足場はどのような工法で施工されたのだろう。
電信室の入り口付近の木柱には木製の腕金と碍子が特に目に留まった。約80年以上たつのに当時のままの状態に驚いた。
長崎市の外海石積
大野教会外壁の石積は三和土で、山口県上関町祝島の石積三和土で共通している。違いは三和土に漆喰を塗る。また屋根瓦に漆喰又はセメントモルタルを屋根全面塗っている。祝島は太平洋からの塩風、強風の対策違い。
長崎の教会群は現況維持で保存が望ましい。
出津救助院の耐震補強は現場に不釣り合い(コラム)の柱
現況の図面を作成して写真等で記録を残してはと思う。
又何度か長崎の同じ道を歩きたい、また見方が違うことが見えてくるであろう。
平成28 年度長崎研修 本伝会 松岡 亜紀
8 月27 日、今回は九州長崎ということで、全てレンタカーでの移動でした(去年もだけど)。
9 名参加予定が8 名となりましたが、初めての方も毎回参加の方も和気あいあいと出発します。
最初の目的地【旧海軍佐世保無線電信所(針尾送信所)】。平成25年 国指定重要文化財に指定された送信施設へ向かいます。ナビを頼りに行きますが、細い路地に入らなければいけないのかと地元の人に聞きながら進むと、小さな看板があり、ようやくたどり着きました。重文になったんだし、もっと大きな看板を立てて観光客増やしたらいいのに。
とか話していると、到着しました。受付は油庫(ゆこ)で、保存会の方がボランティアでガイドをしていましたので、案内を受けながら1 つの無線塔に到着。あまりの迫力に圧倒されます。無線塔は、円形平面の鉄筋コンクリート造の塔で、基部の直径12.1m、高さ136m。それが3基ありますが、無線塔1 基当たり30 万円(現在の50 億円)をかけて建設されたそうです。
このように巨大になったのは、当時、遠距離無線通信には「長波」が適していると考えられていたためらしく、ガイドさんの説明によると今の電気屋さんが登っても早い人で30 分はかかるとか。また、太平洋戦争中の通信には主に中短波が使用されていたため、針尾送信所の重要性は薄れ、戦争末期には無線塔は食料倉庫としても使われていたそうです。
佐世保鎮守府建築科長、海軍省建築局長を歴任した吉田直氏が主任技師を務め、102 万人と言われる工事従事者の中で3 名の犠牲しか出なかったとか、コンクリートのつま砂利は唐津から運ばれ、再度洗浄して使用したりなど、大正時代に
おけるわが国最高水準のコンクリート技術と言われ、調査の結果、震度6 でも耐えうる構造で、あと100 年は大丈夫だろうと太鼓判を押されたそうです(ガイドさん談)。また、入口フェンスの所に建設時の古写真(説明パネル)が展示されていて、後に調べてみると吉田直氏の孫、吉田直紀氏(清水建設株式会社OB)が建設当時の写真を保管しており、佐世保市に提供されたもので当時の建築の様子が解る貴重なものでした。
無線塔に続き、電信室でまだまだ詳しい説明がありましたが、中は立入禁止でした。最後にガイドさんを挟んでの集合写真で施設をあとにしました。
全長316m、海面からの高さ43m、架設当時東洋一、世界第3 位を誇る固定アーチ橋として昭和30 年に完成し、現在も通行できる【西海橋】を通って、すぐにあった「一魚一会」で昼食。いかにも団体客が寄りそうな所でしたが、かなりボリューム満点でついつい食べ過ぎ・・・。それから休憩を挟みつつ、若干急ぎ足で次の目的地を目指します。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として、世界遺産を目指している教会群の一部を
見学しようと、先ず向かったのは重要文化財でもある【大野教会堂】。こぢんまりとした民家風の教
会ですが、明治12 年に大浦天主堂から外海地区(出津教会区)の主任司祭として赴任したフランス人宣教師マルク・マリ・ド・ロ神父が巡回教会として、自費(当時の金額で千円)を投じ、信徒の奉仕によって建てられた教会堂で、大野岳で採れる玄武岩を積上げ、赤土と石灰・砂等を混ぜ合わせたもの(天川漆喰)を接着として使う「ド・ロ壁」と呼ばれる石壁造及び、木造キングポストトラス
組の平屋建、桟瓦葺の教会です。事前予約していたので、信徒の方が待っていてくださいました。一通り説明を聞き、出発です。
途中、市指定史跡【ド・ロ神父 大平作業場跡】に立ち寄り、建設年代は明治34 年頃と推定されるそうですが、古代遺跡のような状態で残っていました。ちょうどきれいに草刈りもされてたので良かったです、
ここももちろんド・ロ壁(一部煉瓦造)です。刻印入りの瓦片が多数落ちていました。
それから集落を下って行き、出津教会堂へ。途中の民家も石積壁であったり、十字架のお墓があったり。ここが重要文化的景観に指定されている【長崎市外海の石積集落景観】であるとは後で気づきました。
ここも事前予約が必要でした。重要文化財の【出津教会堂】。内部は撮影禁止でしたが、白漆喰の美しい(こんにゃく煉瓦を使った煉瓦造に漆喰仕上げ)建物でした。ここでも信徒の方(管理人?)の案内で、キリスト教の説明を簡単に教えてもらいました。側廊にキリストの十字架の道行(14 枚)が描かれた絵が飾られていて、それはキリストが十字架を背負い歩き、十字架上に磔になり、埋葬されるまでの受難の道程が描かれているのでそうです(ここと黒崎教会、大浦天主堂にもありました)。2 階にある聖歌隊の楽廊、お寺と同じように内陣と外陣があり、内陣には入らない。素敵なステンドグラスなど、今までなかなか聞く機会もなかったし、とても興味深かったです。当初は1500 名以上(確か?)いた信者も、ただ今現在は660 名となってしまったそうで、どの宗教も抱える悩みは同じなんだなと思いました(大野教会堂に至っては、8 戸のみ)。
今日の予定はここまでとなってましたが、まだ時間もあったので、平成25 年に重要文化財に指定された【旧出津救助院】に寄りました。ド・ロ神父が、女性たちの自立支援のために、私財を投じて建設した施設で、受付では本物のシスター(竹田出身)が出迎えてくださり、冷たいお茶を頂き、ガイドのおじさんの説明を受け、ド・ロ神父が母国フランスから取り寄せたオルガンの音色を聞かせてもらいました。まだ、ド・ロ神父記念館もありましたが、寄れずに残念。余裕を見ての行程だったつもりでしたが、興味深いものが多すぎて、あれもこれもと見ているとあっという間に時間が過ぎます。
最後にもう1ヵ所と寄ったのが【黒崎教会】。平屋建・レンガ造の桟瓦葺きで、内部もリブ・ヴォールト天井やステンドグラスの美しい教会でした(※ここもド・ロ神父設計という説もあるそう)。
ようやくホテルに向かいます。夕食の待合せ時間まで1 時間程度あったので、近所をブラブラ散歩してみました(コンビニ探し)。中華街も近く、湊公園や常磐駐車場は公園のようになっており散歩にはちょうど良い環境でした。ちょうど戻った時にみんな降りていたので、すぐ合流し、ちょっと離れていた居酒屋まで市電で行きました。なかなか乗る事はないだろうと思っていたので楽しかったです(出島~五島町の2駅だけだったけど)。予約していた居酒屋「登利亭本店」でも、県外からということで長崎らしい食べ物を入れてのプランにしてくれました(クジラや皿うどんなど)。
おなか一杯に食べて飲んだ後はまっすぐホテルに戻りましたが、他の皆さんは二次会へ行き、盛り上がったようです。
翌日は生憎の雨模様。朝食後、今回のメイン(私にとって)【端島(軍艦島)】を見に行きます。ただ、今回は周遊コースしか取れなかったようで、かなり不満でしたが、雨が酷く、かえって良かったかもしれません。乗船中に通る【三菱重工業(株)長崎造船所】の説明を受けながら写真を撮りまくりましたが、波も荒く、結構揺れました。でもちょっと前にもっとすごい波の中をジェットコースターのように揺られたこともあったので、船酔いもなく楽しめました。また、昨夜のスナックのママから電話があり、アフターフォローもバッチリの方もいました(笑)。
途中、【高島】に寄稿し、軍艦島の模型や資料館で一通りの説明を受けました。あの小さな島に一時期は5,300 人もの人がいたなんて・・・。鉄筋コンクリート造の高層集合住宅が建ち並び、40 年以上前に無人となった島で廃墟となっていく様は何とも形容し難いですが、歴史の証人としてこのままの形で保存していってほしいなと思います。
昼食は中華街。丁度雨が激しくなってきましたが、お土産もここで調達し、途中ハプニングもありましたが、最後の見学地に国宝【大浦天主堂】を目指します。
小学校の修学旅行以来の気がします。内部は撮影禁止だったけど、ここもリブ・ヴォールト天井で荘厳な美しい建築物でした。そこを出て、なにげに隣の重要文化財【旧羅典神学校】にもお邪魔しました。後で調べてみると、ここもド・ロ神父の設計になるそそうです。
グラバー通りを下りながら、最後のお土産を購入。これで全ての行程がが終了です。
今回は漠然と、、世界遺産登録に頑張っている教会群と軍艦島を見に行こうと計画して、行程を考えながらの見学地抜粋でしたが、思いがけずド・ロ神父ゆかりの地めぐりと、文化的景観、「明治日本の産業革命遺産」及び「長崎県の近代化遺産」めぐりと、かなり内容の濃い研修でした。時間が許せば帰りに祐徳稲荷にも寄ろうかとの案もありましたが、さすがに皆さんお疲れモード。林さんが全て運転もしてくださり、2日間で 400kmの走行だったそうです。毎回、ありがとうございます。
同じ九州で近場ということもあり、いつでも行けるとか考えてたけど、こういう研修でもないと行くことはなかっただろうなと思うような所ばかり行けて、良い見学が出来ました。いつも思うことながらら、知れば知る程もっと見たいと思ってしまう。今回もキリスト教関連施設や教会等、こちらではなかなか訪れることのない施設であったり、針尾送信所なんて佐世保にあるとは正直知りませんでした。これを機機に「ニイタカヤマノボレ」など真珠湾攻撃について調べたり、と見分を広められてとても良い勉強になりました。
またプライベートでも、軍艦島上陸コースは体験したいと思います!