門司港駅~御手洗町&萩市伝建地区見学研修
松岡亜紀
今回の研修は台風一過の出発となりましたが、目的地も台風被害はあまりなかったとのことで一安心でした。総勢10名で(門司港駅合流組2名)レンタカーで出発です。
門司港駅で三ヶ尻氏と矢永氏が合流し、文建協の今岡所長の案内で駅舎についての説明の後、駅舎の本屋を見学させていただきました。平成24年~平成30年の工事ということで分解工事がほぼ終わった段階でした。木造2階建、延床面積約1500㎡の本屋は、当初は明治24年に建設され、老朽化に伴い大正3年に現在地へ改築されたものです。一等駅は全国に53駅(内九州5駅)あったそうで、鉄道院では組石造が原則でしたが大正時代には木造でも許可され、工期も10ヵ月という短期間で建設されたそうです。
想像以上の仮設素屋根の大きさに圧倒されます。仮設の基礎や鉄骨柱の大きさに耐えうるか毎年地盤沈下の測定もされているとか。昭和4年に増築された車寄せは除去されるようですが、大正7年に設置されたとされる九州で初の電気式時計は復原されるとのこと。1階コンコースから入り一・二等待合室(現切符売場)へ。現状漆喰を剥すと石膏の額縁付の黒漆喰が現れた。造作材は米松が使用されており、広場を挟んで向かい側の三等待合室は杉材と、使用造作材や石炭暖炉廻りのマントルピースの装飾なども差別化されているそうです。また電信室は(逓信省の管轄から別れ、のちのNTTとなる)貴賓室(特別応接室)となり、その後駅長室へと変わったそうです。いろいろな変遷があり現在まで使われていました。外壁も平瓦を貼ってモルタルを塗っており、明治から昭和期には耐火壁として使用されていた工法で、なまこ壁の応用で建材として平らな平瓦(8寸)もあったそうです。主な材は柱(5寸) 杉材、土台は桧、その他は松材とのことで正面附近の柱・桁は蟻害が相当あり、おまけに白蟻(ヤマトシロアリ)の巣がびっしりと残されていました・・・2階へ上がります。
2階部分はほぼ分解され、札打ちされた材が保管してありました。この建具枠に使用されていた材は何でしょう?と質問されましたが材種を見極めるのは難しいです。まだメジャーな材でもなかなか見極めきれません。答えはチーク材でした。貴賓室に使用されていたそうです。また油性ペイントの塗替えが7層確認できる材がありました。
屋根はスレート葺きで、野地板に砂漆喰(1cm厚)を乗せスレートを葺いていたとのことでした。鉄骨と木の2階床梁の成の太さはかなり大きかったです。継ぎ手も面白い形でした。貴賓室の漆喰壁を剥すと紙張りの痕跡が出てきたそうです。紙張りやペンキ塗りの方が高級だった時代のものでしょうか。また、東側屋根の東南隅木に被弾跡があり、他にも何ヵ所か確認されたそうですが、第二次世界大戦末期に連合軍の空爆を受けたそうです。歴史の証人として後世に伝えていくべきものだと思います。防蟻剤の穴も近づかない方がいいですよと・・・昔はヒ素が含まれていたそうです。
一通り見学したあと質疑の時間をいただき、見学のお礼と記念撮影。日帰り組の室さんと野村さんと別れ、呉市へ向かいました。道中はほとんど高速で呉市で一般道に入り安芸灘大橋を渡って、計4本の橋を渡り御手洗伝建地区へ。景観の良い所ですが、あまり印象がなく車中での会話を聞いてる方が面白かった気がします。
御手洗は瀬戸内海に浮かぶ大崎下島の港町でH6年に重要伝統的建造物群保存地区に選定を受け21年経っています。ほぼ修理工事も終わっているような印象でしたが、現在も何件か工事中でした。矢永さんの話だと、その中の「金子邸」には200年前の茶室があるとか・・・見学出来ず残念。プラプラ歩いていると、現地のおじいさんが「ここに御手洗出身の日本で初めて自転車で世界一周をした中村春吉の碑があるよ」と教えてくれたので早速拝見。天満宮の中にあり、そのままお参りした後、後ろの本殿と井戸へ向かいました。菅原道真公が大宰府に流される途中、井戸で手を洗ったことから御手洗ということを知りました。可能門といって、本殿の下を願いを込めてくぐると願い事が叶うとは知らずに通り過ぎ(帰って知った)、県指定史跡の若胡子屋跡へ。天保9年(1724)に開業した茶屋で、現在は耐震補強を施した展示スペースとなっていました(明治期に寺院に転用された際に柱や天井が取り払われたそうです)。ステージから奥へ行ってみると天井に屋久杉が使用された次の間と座敷がありました。ここでお謡いの練習してステージへ出ていたのか?年代ごとの額が飾られていました。2階のおはぐろ事件は割愛。 しばらく散策し、工事中の洋館(普通に防水シートが張られて改修中といった感じ。20年も経つとこうなるのか)を見ていたら、隣の家から年配の女性が自宅を案内してくれました。「鞆田邸」の家主で向かいの洋館も所持しているとのこと(工事中の洋館は別)。
当初は海鮮問屋を営み繁栄していたそうで、三和土の叩きが残る土間から店(?)へ上がり拝見。道路に面している格子はそのままに風雨除けにサッシを入れたとのこと。ご主人の実家に帰ってきた当初、家はボロボロだったけど、あまり手を加えないような修理を心掛けたとおっしゃっていました。その奥は1段上り次の間・座敷へと続き中庭の廻りエンは地トガ材、小屋梁は大きくうねった松梁が渡っていました。なまこ壁の土蔵や離れなどもあったけど、時間がなくバタバタ駐車場へ。そこしか廻れず他の場所へは行けませんでした。結局半分も見れてない・・・
予約の時間があるので呉市のホテルへ行く途中にちょっと寄り道。白崎園という公園で記念撮影。景観が良いところらしいですが、草生え放題で綺麗には見えませんでした。
今回はおばあちゃんが一人で切り盛りされているビジネスホテルに泊まりです。ご主人も亡くなり、息子さんも継ぐ気がないとのことで残念そ
うでしたが、いろんな人と接する仕事だから若くいられるんだと実感しました。まだまだ元気でおられます!
毎度知らない土地での食事は心配になります。た○ログだけじゃ信憑性が・・・今回もまあまあ普通に良かったのではないでしょうか?
(追加のハモは美味しかったです)
二次会は呉の屋台にも寄って満喫出来ました。
翌日・・・朝食付のホテルではなかったので近くのジョ○フルで朝食です。三松さんおすすめの七種の和定食を食べ、8時に萩市へ出発し、道中は前日同様高速で移動。宮島SAでお土産を調達。やっぱりモミジ饅頭は外せないかなー。その後美祢東JCTから小郡萩道路を通り、国道490号線で萩市へ。ランチは「萩しーまーと」が良いと聞きましたので、ランチの前に近くにある萩反射炉へ向かいました。世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成遺産のひとつです。ガイドさんの説明によりますと、試作炉として安政3年(1856)に築造された1基2炉の反射炉で、安山岩と赤土で造られ、上部は煉瓦積みとなっている。全体の高さは10.5mで韮山反射炉よりも約5mほど低い。木炭を燃やし、熱を反射させて鉄(砂鉄)を溶かすのが反射炉の構造で、1炉につき1.5tずつ製造出来る。当時鉄玉は3tあり、1基で1つ分造れることになる。萩よりも先に佐賀で反射炉は造られたそうだが、現存するのはここと韮山反射炉のみである。これの50年後には八幡製鉄所(前身:官営製鉄所)が出来たりと日本人の勤勉さ・技術の発達は世界でもまれであるとのことでした。また石積みの技術も優れていたということです。
見学を済ませ、昼食をとるため道の駅へ。三連休の中日ということもあり、大変なお客さんで賑わっていました。昼食も順番待ちで1時間か2時間か・・・待ちの間にお土産も買えましたが、あと2ヵ所目的がありましたので場所を変えます。萩市には4ヵ所伝建地区があるので、その1つでも巡ろうと城下町の方へ向かっている途中にレストランを発見。程良く食事することが出来ましたが、大河ドラマの関係もあり市内は混んでいるだろうということで、市街地に入る途中で話の出た「佐々並市」の伝建地区へ向かいました。
途中道の駅で場所を確認し、赤い石州瓦の家が立ち並ぶ集落へ。人通りもなく、本当にここなのか?というくらい閑散としたところでしたが、一軒一軒に説明文が書かれた看板が立ち、小学生の作ったガイドマップもありました。平入りの本二階建の無人の休憩所は「目代所」があった場所で、明治40年にこの地の南側にあった旅館を移築したものだそうです。豆腐屋として安政5年(1858)創業した「はやし屋」は、現在は旅館としてとうふ料理も出しているとのこと。幕末から近代にかけて、茅葺きから石州瓦へ葺き替えられたようですが、瓦は島根から職人が来て製造し、葺き上げられたようです。
萩往還は、毛利氏が慶長9年(1604)萩城築城後、江戸への参勤交代での「御成道(おなりみち)」として開かれました。佐々並市はこの時設置された宿駅の一つで「御茶屋」を起点に60数軒の民家が立ち並ぶ萩藩の宿場町として栄えたそうです。幕末には、維新の志士たちが往来し、歴史の上で重要な役割を果たしたそうです。
予定の時間となりました。「市」地区の中ノ町付近を散策しただけでしたが、最終目的地門司の「三宜楼」(矢永さんおススメ)へ出発します。関門トンネルを抜けて九州へ戻ってきました。前日と同じ駐車場に停めて門司港駅とは反対側へ歩いて行きます。前日は御手洗まで行かなければならなかったので、時間の余裕がなくこういう行程となりました。
細い坂道(通称:三宜楼坂)を登っていくと、木造3階建の大きな建物が目を引きます。自治会長さんがわざわざ来てくれて、一通り見て廻ったあと説明をしていただきました。
門司港を代表する高級料亭「三宜楼」の創業は1911年、現在の建物は昭和6年に建設されたそうです。欄間や下地窓に工夫を凝らした意匠や造作は、華やかだった当時の様子が偲ばれます。
“当時の門司港は神戸や横浜と並び、国際航路として日本三大港のひとつに数えられていました。大戦景気の波に乗り港はますます盛んに利用され、出光興産創業者の出光佐三氏ら財界人が集まり、俳人の高浜虚子がここで句を詠む……「三宜楼」はそんな各界の著名人が集まる、華やかな社交場でした。しかし終戦とともに港は縮小し、衰退していきます。栄華を誇った「三宜楼」もそれに伴って1980年に閉店。”(travel.jp HPより抜粋)
解体取り壊し、売却の話が出てきたところ、地元有志による「三宜楼を保存する会」が発足され、16,000名の署名と募金1,900万円が集まり、平成24年に修理工事がなされました。
現在門司港駅がある辺りは明治20年頃から埋め立てされてできた土地で、元々は三宜楼の先は海(湾)だったそうです。その昔(江戸期?)、朝鮮通信使も江戸に向かうルートで門司港を訪れ、村上水軍の援護を受けて関門海峡を越え、瀬戸内海へ渡ったそうです。そういえば・・・御手洗からの帰りに「朝鮮使の訪れた町」というところがあったような。同じルートを行き来したのか(陸路ですが)。
潮待ち・風待ちの港町として栄えた江戸の竜宮城・御手洗、参勤交代のため整備された萩往還の中間に位置する佐々並市、西洋式の鉄製大砲を鋳造するために金属溶解炉として反射炉を導入、九州鉄道の起点として開設した門司港駅、門司港の発展と共に栄えた三宜楼と、全てがつながっているような感覚に陥りました。歴史は繋がっているなぁと感じた研修でした。
今回は全てレンタカーでの移動でした。ほとんどを運転してくれた林さん本当にお疲れ様でした。
走行距離 延925kmだったそうです・・・。